Route 66

国道66号線U.S. Route 66)は、1926年に創設されたアメリカ合衆国の国道。

誕生と隆盛

単にルート66Route 66)とも呼ばれていた。全長は3,755km(2,347マイル)。イリノイ州シカゴとカリフォルニア州サンタモニカを結び、同国南西部の発展を促した重要な国道であったが、1985年に州間高速道路の発達によりその役目を終え、廃線となった。

アメリカ合衆国で初めて国道システムの設置が提唱されたのは1923年のことである。国道66号線は、1926年に連邦最初の国道の1つとして創設された。国道の設置にあたっては、国道番号を偶数とすること、および番号を60から始めることが提案に盛り込まれていた。議論の結果、国道60号線(U.S. Route 60)はバージニアビーチとミズーリ州スプリングフィールドを、国道62号線(U.S. Route 62)はシカゴとロサンゼルスを結ぶ国道として定められた。アメリカ合衆国南西部を東西に貫くこの国道には、覚えやすく、言いやすく、聞きやすいという理由でゾロ目の番号66があてられた。

国道システムが正式に創設されると、1927年にオクラホマ州タルサで国道66号線協会(U.S. Highway 66 Association)が発足。この協会の目的は国道66号線の舗装促進、および利用者の増加を図ることをであった。翌1928年には、同協会のプロモーションの一環として、バニアン・ダービー(Bunion Derby)という競走レースを執り行った。これはロサンゼルスからニューヨークまで大陸を横断するもので、シカゴまでは国道66号線を走るルートになっていた。ウィル・ロジャースを含む著名人たちが沿道に応援に駆けつけるなど、プロモーションは成功を収めた。同協会は1976年に解散するまで、沿道の産業界側の窓口としての役割を果たした。

交通量は日増しに増え、全体的に平坦な地形など地理的な条件にも恵まれ、トラック輸送には適した道路であった。1930年代には、土壌流出によりカンザス・オクラホマ・テキサス各州からカリフォルニア州へ移住する農家が西へと向かうための道としての役割を担った。大恐慌時代には、この国道の存在は沿道の住民に安心感を与えた。小さな町村を縫うように走り、交通量も増加の一途をたどっていたため、沿道には各種商店やレストランなどビジネスを起こす機会にあふれていた。

創設された当時は、他の多くの国道と同じように、ほとんどは未舗装の埃道であった。しかし、国道66号線協会の努力により、1938年に国道66号線は全米の国道で初めてとなる舗装がなされた。Bloody 66(血まみれの66号線)と呼ばれるような危険な場所もあったが、ルートの変更などにより次第に危険なカーブがルート上から取り除かれていった。しかし、アリゾナ州のブラック・マウンテン山地(Black Mountains)を越える1ヶ所だけは1953年までヘアピンカーブの連続する曲がりくねった道として残った。それでも国道66号線は人気の高い道路であり続けた。

第二次世界大戦中、カリフォルニア州で軍需産業が発達し、西への人口の動きはさらに加速した。そうした状況下で、国道66号線は軍用品の運搬路としての役割を果たした。国道66号線の近くにあったミズーリ州のフォート・レナード・ウッド陸軍基地(Fort Leonard Wood)は、軍の交通需要に応えるため、迅速に国道の拡幅を行った。

1950年代に入ると、国道66号線の主な通行者はロサンゼルスへのバカンス客へと取って代わられた。この国道はアリゾナ州内においてもグランドキャニオンの近くを通っていた。同州のバリンジャー・クレーターも人気の高い観光地であった。こうした観光需要の高まりにより、沿道にはモーテルや各種ショップが建ち並ぶようになった。また、沿道ではドライブスルーの設置や、マクドナルドの登場など、ファーストフード産業も生まれた。このような沿道の変化は、「ルート66」を単なる道路ではなく、アメリカ近代文化の縮図へと変貌させていった。

 

 

衰退

国道66号線の衰退への道は1956年、ドワイト・アイゼンハワーの連邦補助高速道路法に調印したことによって始まった。この法律は、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線においてアウトバーンを目にしたアイゼンハワーが、アメリカ合衆国にもそのような高速道路網を建設しようとして成立させたものだった。以後、この法律により、アメリカ合衆国内の主要な国道は次々に州間高速道路に置き換わっていった。

国道66号線も例外ではなかった。高速道路の技術が発達するにつれて、技術者たちは常に都市間を直線的に結ぶルートを考えていった。第二次世界大戦後の交通量の激増によって、国道66号線も大小の変更を余儀なくされた。例えばイリノイ州においては、シカゴからミシシッピ川岸に至るまでの州内全線を4車線に拡幅し、バイパスも町という町に建設した。1950年代初頭から中盤にかけては、ミズーリ州においても4車線への拡幅が行われた。両州の4車線に拡幅された国道66号線のほとんどの部分は、後に州間高速道路へと置き換えられていくことになった。

1953年、国道66号線の初の大型バイパスとなるターナー・ターンパイク(Turner Turnpike)がオクラホマ州タルサ・オクラホマシティ間に開通した。全長140km(88マイル)におよぶこの有料道路は国道66号線に並行し、沿道の町を迂回して走っていた。この有料道路は1957年にウィル・ロジャース・ターンパイク(Will Rogers Turnpike)と合わさり、タルサ・オクラホマシティ両市とミズーリ州の州境の町ジョプリンとを結んだ。この有料道路もまた、国道66号線に並行し、沿道のオクラホマ州北東部やカンザス州内の町をことごとく迂回して走った。この2本のターンパイクはやがてタルサの国道66号線バイパスとともに州間高速道路44号線となった。

テキサス州においては、国道66号線を州間高速道路で置き換える計画が頓挫した。州間高速道路の建設にあたって訴訟沙汰になったからである。この頃になると、国道66号線協会が地元産業界を代弁し、州間高速道路の建設反対を訴えるようになった。州間高速道路は地上の道路とランプウェイでのみ接続する形であるため、道路の開通によるビジネスの機会につながりづらく、結果として産業の損失となるのではないかという懸念があったからである。

このような訴訟は有料道路以外ではあらゆるところで起こった。ミズーリ州のいくつかの町では、国道66号線の標識を町から取り除いて州間高速道路を建設したら訴訟沙汰にすると言って州政府に脅しをかけた(しかし実際には訴訟は起こらなかった)。いくつかの企業は国道66号線との関連性で有名だったため、66という番号を失うことを恐れ、ミズーリ州政府に国道66号線のセントルイス・オクラホマシティ間を「州間高速道路I-66」として制定することを求めたが、州政府に拒否されてしまった。

1984年、アリゾナ州ウィリアムズで州間高速道路40号線の完成により、国道66号線の最後の部分が置き換えられた。その翌年、国道66号線は正式に廃線となり、59年の歴史に終止符を打った。

新しい州間高速道路には、1本たりとも国道66号線を完全に置き換えたものはなかった。国道66号線のルートは、以下のように5本の州間高速道路に分割されてカバーされている。

廃線後

国道66号線の廃線後、道路は様々な形に転用された。沿道の多くの都市では、道路は州間高速道路を補完する通勤道路(business loop)となった。州道、郡道、市町村道、私道となった部分もあった。道路としては完全に使われなくなった部分もあった。一方で、ミズーリ州スプリングフィールド・オクラホマ州タルサ間のように、保存されている部分も数多く存在する。現在でも、ルートの80%以上は緻密な計画のもとに車でたどることができる。

この国道の66という数字は各州の州道に引き継がれている。ミズーリ州道66号線、266号線、366号線はすべて国道66号線のルートであった。オクラホマ州道66号線は近くを通るターンパイク(有料道路)の無料のバイパスとしての役割を果たしている。アリゾナ州ではアリゾナ州道66号線となり、キングマンへと通じている。ロサンゼルス東郊のサンバーナーディーノなどいくつかの都市では、フットヒル通り(Foothill Boulevard)をカリフォルニア州道66号線としている。また、郡道や市道でもこの66という数字を引き継いでいるものは少なくない。

 

ポップ・カルチャーの中の「ルート66」

国道66号線は廃線となったが、「ルート66」は企業の名前として、あるいは文学、音楽、テレビドラマなどでその名が生き続けている。

ガソリンスタンドのフィリップス66(Phillips 66)はその一例と言える。オクラホマ州内での国道66号線はほぼ平坦な直線道路だったため、1920年代後半にタルサの石油会社がガソリンの新製品のテストに使用した。テスト中、検査員の1人は速度計を見て「車は時速66マイル(約106km)で走っているようだ」と言った。このときの車の速度と国道の番号をかけて新製品は「フィリップス66」と名付けられた。フィリップス66は現在においても販売されている。

1940年、カリフォルニア州の作家ジョン・スタインベックは『怒りの葡萄』を発表した。この小説にはカリフォルニアに移住するために西進するオクラホマの農家が描かれた。作品中、一家は偏見や貧困といった様々な問題を乗り越え、明るい未来を求めて西へ西へと進み続ける。この小説の中で、スタインベックは西へと向かう道の描写に1節を費やし、節の内容をオクラホマシティと国道66号線に集約させた。この作品の中では、国道66号線は「マザー・ロード」と記された。この「マザー・ロード」は、現在でもこの国道の別名として残っている。後にこの小説がピューリッツアー賞を受賞したことにより、この国道の知名度はさらに高まった。

1946年、ジャズピアニスト・作曲家のボビー・トゥループは、自ら国道66号線を走ってカリフォルニアへ赴き、『ルート66』という楽曲を書き上げた。楽曲のタイトルはトゥループの最初の妻、シンシアが思いついたものであった。ナット・キング・コールの歌唱によりこの楽曲は大ヒットした。この後、この楽曲はジャズ・スタンダードの名曲としてローリング・ストーンズを含む数々のアーティストにカバーされることになった。

「ルート66」にちなんだテレビドラマも放送された。中でも代表的なのは1960年から1964年にかけてCBS系列で放送された『ルート66』である。ドラマ中、シボレー・コルベットに乗った2人の若者、トッド(Tod)とバズ(Buzz)は冒険を求めてアメリカ中のハイウェイを走っていく。しかし、多くのシーンはロケで撮影されたにも関わらず、またタイトルとは異なり、実際には国道66号線がロケ現場となることはほとんどなかった。このドラマの放送をきっかけに、コルベットは「ルート66」に最も関係の深い車となった。

ゼネラルモーターズには、コルベットと並んで「ルート66」に関係の深い車、キャディラックがある。テキサス州アマリロの近くにはヴィンテージもののキャディラック10台を並べ、先頭を地中に沈めて立たせたキャディラック・ランチ(Cadillac Ranch)というモニュメントがある。

スポーツの世界にも「ルート66」にちなんだ名前が存在する。NBAの下部リーグ、ディベロップメント・リーグ(Development League)のタルサ・シックスティシクサーズは国道66号線にちなんで名付けられた。野球のマイナーリーグにも、インランド・エンパイア・シックスティシクサーズ(Inland Empire 66ers)というチームがある。

「ルート66」にちなんだファッションとしては、Kマートで売られているジーンズのブランド、「ルート66」が挙げられる。

1995年に公開されたディズニー社の映画、『グーフィーとマックス ホリデーは最高!』(原題A Goofy Movie)では、グーフィーとマックスが国道66号線を走ってバカンスに出かける。同じく2006年夏公開のディズニー社の映画、『カーズ』は国道66号線を主舞台としている。この映画は当初『ルート66』というタイトルで公開される予定であったが、1960年代のテレビドラマ(前述)と混同しやすいという理由から改名された。

アメリカ合衆国のドラマ『プリズンブレイク』にもルート66は登場し、ドラマの個別タイトルにもなっている。

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